誰がつくったんだろう
写真は嵐山天龍寺沿いにあったお地蔵さん。
なんかエライ可愛い、、、
誰が、なんの為にここに?って不思議だけど。
でも、京都ってこういうわけわかんない意味がなく不思議なものが点在してて、そのわけわかんなさが好き。
不思議な店とかもあるし。商売する気がないとしか思えない店とか。
このお地蔵さん、可愛いなー。ホンマにー。
京都住んだら、もっといろいろぶらつけると思ったんだけど、思いもよらぬ状況で(まあ、いいことなんですが)毎日、大阪通いをするハメになったんで、最近めっきり大阪の人です。と、いうわけで、あんまり更新できないのだ。
でも大阪も嫌いじゃないけど、やっぱり京都がいいなー。
秋は忙しいだろうけど、冬になったら、もっといろいろまわろう。
その為に、遊ぶために、仕事して。
あと、着付け習って着物着れるようになろうと思いました。天神さんとかで、千円、五百円とかの着物買ってやる。似合わないからって敬遠してたけど、似合おうが似合わまいが好きなもんを着てやる。冬には着物着て京都を練り歩きたいなー。
野々宮
嵐山から天龍寺を横切り嵯峨野へ続く竹林を抜けると、そこに野宮神社がある。
源氏物語にも登場し、そして何よりも「縁結び」の神社として知られている。
境内には様々な想いの籠められた絵馬が奉納されている。あの人と両想いになれますように、あの人と恋人同士になれますように、良き人と結婚できますように、素敵な人と出会えますように、と。
恋愛は、痛い。至福の喜びと表裏一体に、失う怖さと寂しさが存在する。そうして、人は、弱くなる。
痛みと弱さと寂しさと引き換えにしてまでも、「縁結び」を願うものなのだろうか。結ばれて、その果てにあるものは、極楽だけではないと知っていても。弱くなっても、哀しい朝に遭遇しても。
それでも、縁を求めて、人はここに来て絵馬に想いを託すのだろうか。苦しむ為に、別れる為に。
その痛みが、人を捕らえて離さない心地よい痛みだから、縁結びを願うのか。
野宮を抜けると、その先は、嵯峨野。
寂しい道を照らす竹林のはざまよりこぼれる光。
都の外れの人恋しい嵯峨野。
野宮神社に人足の途絶えることは無い。
公家芋
公家芋本舗http://www.kugeimo.jp/
わりと、新しい名物です。昔は無かったな。
要するにさつまいものきんつばです。本店は北山だけど、嵐山、奈良三条、東山にも店舗あり。
砂糖を使わない、芋の自然な甘さです。
昔から、「いもたこなんきん」と申しまして、女の好きな食べ物があげられていますが、私は別に嫌いじゃないけど、そんな特別好きでもないです、さつまいもは。でも、この公家芋は、傑作どす。(←京都弁使ってみました)
で、食べるなら、出来立ての温かいのを。お土産として持ち帰りもできますが、食べる直前に温めた方が美味いです。
東山や嵐山を歩く時は、食堂とか入る時間が勿体ないので、この公家芋や、その辺のもんをテイクアウトして、歩き食いしながらひたすら歩く。歩くの好きやし、人が多い時って、どこの店も混んでるし、混んでる店に一人って、非常に入りにくい。
素材の持つ自然の甘味を生かした温かい芋のきんつば。だから、後にひかない甘さなんですね。甘いの苦手な方でもいけるんじゃないかな。
京都の和菓子って、そういうのが多いです。後にひかない甘さ。ベタっとしてない、甘党じゃない人でも受け入れられる甘さのものが。それこそが、繊細な甘さというのでしょうか。だからこそ万人に受け入れやすい。
公家芋は、比較的新しいけど、京都の和菓子文化ってのは、凄いですよ。もともと皇室や貴族に競って出していたという歴史とプライドがありますからね。
だからこそ、新しいものをどんどん取り入れて、挑戦し続け、遊び心がある。和菓子に関しては、京都が日本一だと思うなぁ。
進化し続けてこその、和菓子だから。
泉仙の弁当
京都のデパ地下は楽しいなぁ。ついでがある時ぐらいしか行かないけど。
いろいろあるから、時間が無い時に、一気に用事済ませられるし。
今日、ついでがあって閉店前のデパ地下ぶらぶらしてて、家帰ってなんか作るのめんどくせーし、弁当でも買って帰るかって思ったのです。
冷蔵庫の中に、朝の残りの味噌汁があったし、漬物(赤尾屋の繭味大根)もあったし、ご飯ものがいいなーって。中華とか洋食もいいけど、味噌汁と漬物があるから、和食かなぁ、やっぱり、と思いながら、閉店15分前、歩き回りました。
セコい私としては、100円引き、200円引きぐらいの値引きじゃ、まだまだ高いような気がして選びあぐねていたのです。
ほんで、発見したのは、泉仙http://www.kyoto-izusen.com/の六角弁当。他の弁当は、売り切れてたけど、これだけ残ってて、1260円が、半額になってたんですよ。
老舗精進料理の弁当が、半額っ!630円なら、私自腹切ってもいいわっ。
いえね、正直言って、仕事で懐石とか幕の内弁当って、食べることが多いんで、そんなに期待はしてなかったんですよ。
本当に、良いものを食べていないと言われたら、そうかもしれないし、正直自分の舌には自信がない。
貧乏舌だし。
で、六角弁当ですが、鮭とかは普通じゃんって思ったけど、梅干の美味さにビックリ!ほんで、麩饅頭が笹の葉にくるまれて入っていたのが、嬉しい。
半額じゃなくても、買えるようになりたいねぇ。
ちなみに味噌汁には、京都清水七味屋の七味をかけます。風味が違う。この七味無しでは、生きていけないかも。
地獄は極楽のように
地獄を描いた絵は、炎と血の色の鮮やかな朱色が、まるで極楽のように美しい。地獄と極楽は似ている、間違ってしまいそうなほどに似ている。
実際のところ、同じものなのではないかと思えるほどに。
地獄に似た極楽か、極楽に見せかけた地獄なのか。
極楽に行くつもりで、いつも地獄への道を選択してしまうのは、自分が地獄を望んでいるからなのだろう。そうすることしか出来ないのなら、地獄を極楽にすればいい。
多分、誰もが、極楽のつもりで地獄へ行く。地獄の甘さや痛さが快楽だから。
この世の、正常な人間なんて、皆マゾなんだよ。周りを、見渡せば、わかるはずだ。
京都東山区の某所
この写真の場所の坂を上った高台に、以前は某有名作家がお二人住んでいらっしゃいました。一緒に住んでおられたのではないけれども、お隣同士で。
女性作家が亡くなって、その後、男性作家は関東の方に移られて、今では女性作家の娘さんが住まわれているそうな。
この前、テレビで、その娘さん(女優)が、そのご自宅を公開なさってましてね。豪華なお屋敷を。
それを見て、しみじみと、、
「お金があるって、、、、ステキ、、、、」
って、思いました。そら、使い道無いほどあってもしゃあないけど、自分の趣味で身の回り固めたり、好きなもんためらいなく買えるほどには欲しいなぁー。
ま、それもセンスの問題だけれども。下品にならないようなお金の使い方って。
ちなみに、この某女性作家の娘さんの書かれた京都のお土産の本は、お勧めですので、後日、紹介します。
水上勉 「日本の風景を歩く 京都」
って、本を図書館で借りて読んだのですが、これ絶版になってるわ。残念。
水上勉の本は、そんなに読んでないのですが、「金閣炎上」と「五番町夕霧楼」(←金閣寺放火事件好きだから)と、あと忘れた。あ、一休宗純関係の本か。一休さんの本の「狂雲集」ってタイトルがいいですよね。
若狭出身で、京都相国寺(同志社大学・京都御所の近く)におられたということは知っていましたが。
この本の内容云々は、ともかく。
「良い文章」と言うのは、「美しい文章」であって、「美しい文章」って言うのは、人を酔わせる文章のことなんだなぁと今更ながら思いました。
人を酔わせて自分の世界に引き込ませる。しかし、自分は酔ってるようで、実は冷静なのです。酔ってるフリして、人を自分の世界に「人を酔わせる比喩」や「人を惹きつける言葉」を巧みに使って引き込んで、泥酔させる。
だから、酔わせる方には、冷静さと、ある種のズルさと巧妙さと知恵が必要なわけです。人をたぶらかしているわけですから。
しかし、それは酔う方にとってみれば、そら、もう、たぶらかしが上手ければ上手いほど、心地良く「ありがとう」と酔えるわけです。気持ち良く騙されて。いやんもっと騙して酔わしてんって。
ああ、これが、坂本龍馬の言う、
「男子はすべからく酒間で独り醒めている必要がある。しかし同時に大勢と一緒に酔態を呈しているべきだ。でなければこの世で大事業はなせぬ」
って事なのかな、と思いました。酔わせる事ができなければ、自分は酔ったフリして人を酔わせる事をせず、「訴えたいこと」だけを書き連ねている文章は、もしかしたら理路整然として「感心」する文章かも知れないけど、「感動」させることはできないんじゃないかと、思いました。
「感心」する文章ってのは、「わかりやすいなー」「よくわかるなー」「これを書いてる人は、頭の良い人だなー」って。しかし、「頭の良さ」なんてのは、論文書く時ぐらいしか、必要じゃないのじゃないかしら。
で、水上勉氏の「京都」ですが。
酔わせて頂きました。たぶらかされました。心地良く悔しいほどに、やられてしまうような、「美しい文章」でした。
うっとり
偶然ですが、先日、仕事で水上勉氏の故郷を通りました。若狭は、好きです。写真は嵯峨野の山陰線の踏み切り。本文とどう関係があるのかと言うと、金閣寺放火事件の犯人の学僧の母は、事件の後、京都で息子と面会し、山陰線で家に帰る途中、保津峡のところで投身自殺してしまうのです。無理やり本文と、こじつけました。